top of page

01ね2 可能性X類似造形と、口(さい)。

そこで可能性エックスと名付けた十二支のはじまり「ね」造形をあらためて考察するが、

すべての造形が、それぞれ違うカタチをしているので、後半五期に刻まれた最期のカタチから

その「ね」造形のひとつひとつのライン(線)と、それぞれの部分を丁寧に、見つめてみる。


「ね」補11616=合38022(=後期造形)  用例「甲子」


甲骨文字後期造形では、

頭部とおぼしき□(しかく)いカタチの中に×徴(ばつじるし)がある。

中央を頭部とみれば、その上には三本の毛が生えていて、

下部には、アタマの下から2本生えてている。これは足?だろうか。

あたまでっかちの「ゆるキャラ」のような二等身である。

成人したヒトではないので、産まれたばかりの赤子、幼子とみるのが妥当であるということになる。


さらに「ね」の甲骨文字時代の文字変遷で、もっとも初期の造形にも見ていこう。

初期~後期でも明らかに造形に違いがある。



甲骨文字のなかでも最初期の最初期、発想のはじまりをしりたい。

そしてこの初期造形に類似する文字を考察する。


左上の初期の造形は、かなりシンプルである。

これが発想のはじまりのカタチで先ほどの後期とはまた違う造形となっている。


すべての甲骨文字4500~5000造形の中から、可能の限り類似するカタチを集めて考察する。

すると、タテに長い「凡」や「舟」が近い造形であることが発見できる。



「凡」はすべての意味をもつ。そして空っぽの中空の容器を象ったといわれる文字。



類似造形として「凡」「舟」を「可能性X(ね)」と関連づけて考察する。

これら造形に共通することは、からっぽ(空)であることだ。「凡」は諸説有るが、その造形は中空の容器の一般像を象ったものとよばれている。口(さい)のような底がある器というよりは箱的の容器を象った造形である。




「舟」造形のほうは丸木舟そのもののカタチで、刳り抜いた大きな長四角のものが想定できる。この器のような「空っぽ」のカタチは、そのままヒトの身体に見立てれば「ね」造形にも共通する。これが身体の部分であれば、身体という本体はまだ「からっぽ」であるということだ。



「ね」は十二支という時間のはじまりでもある。ヒトは生まれたばかりのその瞬間は何ものでも無い。しかし何ものにもなれる可能性がある。その空っぽの入れ物(肉体)が、この「凡(中空の容器の一般像)」や「舟(木をくりぬいた丸木舟)」の「入れ物」に類似する「ね」として、共通の発想としてとらえることができるのではないだろうか。


更に「凡(中空の容器の一般像)」から派生する文字に「興」と「同」があり、この意味するところをみていきたい。「凡」は甲骨文の文脈からは観念的な意味合いが強く、文意を読み解くと祭祀儀礼の名としても刻まれている。「同」も祖先神(父乙)への祭祀名として、また「不同」などの動詞的祭祀用語として刻まれている。




のちの人類が「我思う故に我あり」という認識を言語化し、ヒトの意識が「同じであること」を認識すること。そして同一性という言葉になった。心理学(発達心理学)や社会学において『自分とは何ものなのか』という概念をさすとされる自己同一性(identity)である。ここに充てられた漢字「同」の「同じ」という概念こそが、人類の暮らしにおいて共通の理解や認識を生み出した。


 同じであると認識する能力は、他の動物にも別の要素(人間が感知できない感度)で存在するが、人類は「同じ」という見立てを応用して、さまざまな概念を積み上げてきた。

 数学における数の認識も共通でなければ成り立たない。倫理、哲学だけでなく通貨の概念も「同じ」認識だから成り立つ。ほんとうの物体としては、実物のものとしては同じではないもの。たとえば別々の紙切れを、日本銀行が印刷してる同じものだから、同じ価値として共通理解が通じている。言語も文字もその例である。通貨や数学、科学技術を駆使し、政治に至ってはときに肥大な共通認識を同一性の哲学として確立したのであろう。


「同じ」という文字造形をの甲骨文字の発想のはじまりはここにある。


更に「凡」を要素にもつ甲骨文字として、おもいを興すの「興」造形や、十干にもある「庚」と「凡」を組み合わせた「庸」造形がある。からっぽの容器は興をおこし楽器を響かせる。

 




人類がシンボルを刻みはじめたとき、共通する「同じ」を意識する革命がはじまった。同時になにかを仮定しながら想像し、そのものを別の類似した物を借りてたとえること、いわゆる比喩表現する方法も備えた。

それを行動にうつしたものが祭祀儀礼であり、祈りと共に生まれたかけがえのないものを、埶朮とも呼ぶことになる。(甲骨文字の埶は、蹲踞し艸木をうえる所作造形、朮は又に小点がつき、手の仕草や技術を表現した造形)

「ね」造形と類似するこれらの文字は、生命の誕生の「はじまり」を描く「空っぽ」の肉体としての器を表現しているのではないだろうか。




中空の器の造形は、凡とは異なるが、口(サイ)にも似ている。違いは器の底を湾曲に強調して、底が抜けていない器が祈りとしての口(サイ)である。人間は口(サイ)にはなれない。このことについて文字創成の中で最重要造形のひとつ、口(さい)にすこし触れておきたい。


 なにかを入れる器という創造物の出現は、人類史に飛躍的な大改革をもたらした。列島の縄文土器や大陸の青銅器、その器の概念は祭祀とともにあり、文様や文字と共に刻まれた装飾は時代を超えて芸術作品ともいえる。そして3400年の文字変遷を経て、今現代も使用している「漢字」の中の多くの文字に口(さい)は刻まれている。この器には禱りを閉じ込めた祝詞としての機能がある。しかし漢字の口(くち)といえば、食べ物を食べる口や、他愛ないおしゃべりをする口である、しかし口(さい)は、それとは別の特別な口(※口の使い方)であった。シンプルに言えば、祝詞を奏上する口である。現代人のようにおしゃべりな口でもなければ、ものを食べる口でもない。祷るためにある口、それが口(さい)である。


実はこのことを強く感じたのは神職として御宮で奉職をしていた時である。その日は早朝から夕刻の日が沈む時間までご祈祷の参拝者がひっきりなしに続いた。普段は余裕をもって休憩をとったり、御朱印を奉製したり、次の祭の準備や、さまざまな別の業務もある。しかしその日は一日中、祝詞を奏上し続ける日であった。朝拝と夕拝だけでなく永延と祝詞だけを奏上する。巫女や他の神職と交わす言葉もなく、、、その日は一般的にいう「言葉」をまるで発していない。「会話」をしていない。口は祝詞奏上の連続であった。この経験は後から気づいたのだが、口(さい)であった。神職として祝詞を奏上するための自分自身が、そのときだけは、ただの器〔口(さい)〕となったのである。

しかしそれは永遠ではない。永久に祝詞を奏上しつづけることはできない。排便もするし、食べ物も食べるし、他愛のないどうでもいいようなおしゃべりもする。無論、神職は神ではない。ただの媒介者であり普通の人間である。人間自身は実際は永久的口(さい)にはなれない。しかし祝詞奏上の時だけは口は口(さい)となるのである。


「個体発生は系統発生を繰り返す」そのことを実証し「地球生命5億年の進化を、ヒトは受精32日目~38日目のわずか1週間で駆け抜けます。」と魅力的な言葉を遺した三木成夫翁は「土管」と、その断面図を描き、「人間はもともと1本の管(くだ)だったのです」と言った。その管の外側を構成しているのが、体壁系(筋肉・神経・皮膚)で「動物器官」、管の内側は内臓系(腸管・循環・腎泌尿器・生殖)で「植物器官」。その入り口が「くち」であり、その出口が「肛門」であると。


重要なのは祝詞を奏上する口である。この口は、本来の人間の口とはことなり口(さい)となる。筒状の身体(ちくわ理論)として1本の管(くだ)の入り口としての人間の口ではなく底のある器として禱りを奏上するための口である。器には大切な祈りを零さないようにする底辺がある。人間の身体は口から肛門まで管のように通り、流れてしまうので器にはなれない。祷るときだけ器になるのである。人間が肛門を閉じたら食べ物を食べて出すことができないで内側に溜まり腐って死んでしまうだろう。しかし口(さい)となれる祈りの器としての祝詞を奏上することで、他の動物とは違う「追悼の祝祭」を得た。

縄文土器も青銅器も、人類が生み出した「いのり」のひとつのカタチである。


器と肉体。「ね」造形は、なにものでもないが、なにものにもなれる。

可能性エックスの誕生である。


多くの文字の中から関連のある文字を探すと、意味的にも「皇」文字の類似が挙げられる。




皇太子の「皇」の誕生。

そしは、新しいCircleの循環のはじまりでもある。

可能性は満ちあふれている

からっぽだから。


西暦2032年は壬子。 ね。可能性X。

Commentaires


特集記事
最新記事