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卯考6 宗教の本質。

あらゆる宗教の根本には、似ている点がいくつかある。

そのひとつに、「卯」と「酉」の發想がある。













昨年のブログで紹介したとおり、

「卯」とは半分に分け合ったよき「神饌」であった。















その半分に祈り(口さい)が加わる。

神前で祝詞を奏上し、神々にかなった特別な神饌である。

よいものー克(よ)きもの。




















前回記述したが「克」は、その現代で使われる意味「相手に勝つこと」からはじまったのではなく、

造形発想の原初は吉祥のお下がりであった。


いつしかその肉(褒美のエサ)の部分と意味が混同し、相手を打ち負かして勝ち取る意味にもなった。

克己心は己にかつことであるが、勝つの意味は、打ち勝つ意味。かけがえのない神饌であったことは忘却されてしまった。



そして考察を重ねて革命の「革」の文字を詠む。

その造形は、神饌(犠牲)を開いたような造形である。

克が側面から見た造形であれば「革」は正面から見た造形。

この造形からものちの時代に「革命」の単語が生乱される。




卯年と酉年は呼応し、

それは肉であり、酒であった。


十二造形Circle対角考察のなかで紐解くと

ヨコのラインは「饗食」を表現し、神道的用語では「直会(なおらい)」があてはまる。




この肉と酒の直会は、そのまま、パンと葡萄酒にも置き換えられよう。



わたしの肉(パン)    →卯  

わたしの血(葡萄酒)   →酉  

終わりの日に復活させる →十二支の循環(亥→ね)


そして命あるものは直線ではなく、円を描き、循環する。




12造形を好循環SAPIENS仮説(十二造形Circle)として前半と後半にわけて考察した。


現代、子ども達はわけあうことを学べてるだろうか?

教育でいま、どこまで体感できているのだろう。

そして、交わすその水は、死にゆく老人の最期の時間を潤してくれるだろうか。

死という再生を前にして。


残されたものは、その滴を流しこんで、祝祭とともに見送ることができたのだろうか。2024


追記:宗教という言葉は新しい。神道的なるものは「新興宗教」や法に定められた宗教の枠だけで語りきれるものではないだろう。近年の国家神道、神社神道、そしてこれからも国と政治の枠の中で、やむを得ず「宗教」として言語化せざるえない。しかし、かむながらの世界の本質は、宗教という言葉の枠では収まりきらないだろう。

 同時に文字はどうなんだ?「はじめにことばありき」と記した聖書は一説は有名だが、東亜細亜の甲骨文字は、もとより祭祀の發想をふんだんに内服している。乱暴に言えば、いわば「漢字」が祭祀用語の派生で在り、現代の言葉で言えば宗教そのものである。

 日々、無自覚のうちに「神々」として最初に刻まれた文字を、われわれは活用して暮らしている。願わくば、未来の子ども達が我が国の歴史だけでなく、そもそも人類はどのように歩んできたのか。3400年前の甲骨文字と漢字を通して自覚的に、考察できる人類でありたい。思想や政治的イデオロギー、既成概念の間違った辞書や文献の使い古された定義に惑わされずに。ネットやSNSにもね。原姿を發想せよ。














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