02丑1 指先まで未来。仕草と所作。
2024年3月2日は乙丑の日。西暦2033年は癸丑。 指先の仕草と所作。
十二支2番目の「丑(チュウ)」は、指先に力を入れて曲げた手の造形。わずか2画の線〈ライン〉で構成された手(又)造形をベース〈基本型〉として、その手の先に短いラインを付け足して構成されている。
この造形発想は、指先の機能を活かし、なにかを掴む、なにかを握る等の動作を示した抽象的な表現をあらわしている。十二支1番目の多様な異体字ばかりの難解な「ね」造形とは異なり、「丑」造形は甲骨文字が刻まれた全ての期間でほぼ同じ造形を維持している。そのたった二画の手(又)の造形を基本として、先端部分に変化を加えたことで、爪を立てている象形文字(※白川静翁)と解釈する説明もある。爪を立てて何をするかは論じられていないので、手先をつかうこと。その指先の動きまで重視した造形であることは間違いない。
指先の技シンプルな造形で、手(又)に少しの変化を加えた抽象的な表現。
シンプルな又(手、右、左、有、侑、祐など)の造形とは異なり、「又」ではない「丑」造形をもつ文字は(※守の異体字)、徹(鬲+丑)、對(対)や、いくつかの亡失文字が挙げられる。繊細な技を必要とする手作業や、祭祀儀礼での神具をあつかう所作など。「丑」は、指先にまで神経をとがらせ丁寧に扱う仕草が必要とされる文字造形として表現されている。
ここで十二支のはじまりの2つの造形の流れをみていこう。最初の「ね」が胎児のアタマの形ならば、「ね」から「丑」は、アタマ〈脳〉と手、この部位はヒトにとってきわめて基本的な、かつ最も重要な二つの部位を表象しているではないか。さてヒトとほかの生物種とを分ける特徴とはなにか。この根源的な問いにはいくつもの答えがある。
『対象に接するのに、ほとんどかならず唇、歯で把握する齧歯類(げっしるい)とは反対に、霊長類は手の作業の組み合わせを介入させる』(※先史学者ルロワ=グーラン「身ぶりと言葉」)人類は二足歩行になって、両手が自由に使えることを知った。形質人類学的には垂直位(二足歩行)の獲得とともに歯が小さくなり、眼窩上隆起が小さくなると大脳皮質の面積が増大し、それが顔と手の神経領域の発展を促したとされている。手が自由になり、その手で道具を使い道具で道具を製作し(※Gert Engels),やがて手の器用さが、更に脳の発達をうながして、より複雑な手捌き、ブリコラージュ(※レヴィストロース)的な活動の積み重ねは、現生人類の営みをつくりあげてきたといえる。指先の精緻な作業から、貝や石を加工する術を編み出したり、あたらしい道具をつくり出したり、ついには文字を創成し微細な彫刻も可能となった。十二支の脳と手の時(暦)の流れは、25万年前の現生人類ホモ・サピエンスから続く人類史の幕開けでもある。
そしてその流れは、生まれたばかりの赤子にもあてはまる。
「指先は第二の脳」ともいわれ、指先を頻繁に使うことは脳の広範囲に刺激を与え、発育を活性化すると言われる。子どもの発達の中でルードヴィッヒ・クラーゲス(ドイツの哲学者)は幼児が「あーッ」と声を出しながら、遠くのものを指さす動作こそ人間を動物から区別する、最初の認識だという。(『内臓とこころ』三木茂夫) 指さきを動かして『指示』し『認識』し活動は広がる。たとえば、生まれたばかりの赤子がグーパーグーパーして母親のぬくもりを確かめて最初に母の指をギュッと掴む、握る仕草。まるであたらしい命の誕生を、自身で掴み取り、握りしめて確かめるかのように。生命の誕生から、生まれたばかりの赤子は、アタマと指先の冒険がはじまる。幼児が、その小さくやわらかな手で、目の前に起こる大事件から様々な行為を学ぶたびに、指先機能はひろがり続けるだろう。成長する過程の段階が進めば、手習いとして道具を手にし、そのモノの使い方を知り、発育を重ね、いつか大人になったときは職人的な手捌きで「手仕事」をするかもしれない。
たった二画の線〈ライン〉である手〈又〉に、指先を加えて刻んだ「丑」の文字。
その指先の未来は可能性に満ちている。
先月のブログ→癸の日。歳は癸丑に在り 参照。
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