辰考03 辰の發想。創造の石(自然素材)を活かせ。
辰の正体と、その発想。それは石(自然素材)からの創造。
♦石と青銅器 十二支対角考察「辰」と「戌」…十二支の發想.
2024年02月09日 癸卯の日。
日本最古の石器が使われたのが確認できる群馬県岩宿遺跡は、約35,000年前(岩宿I石器文化)とも言われている。その年月は3万年前でも、はるかむかしの太古のことであるが、旧石器時代は前期まで遡ると約250万年以上前ともいわれている。甲骨文字が発掘された殷墟が3400年前の遺跡と推定されるから、人類史からみれば甲骨文字以降のわれわれの文明(4000年弱)よりもはるかに「石器時代」は長い。
殷代後期には、「石器」と共に「青銅器」に鋳込まれた銘文(商周金文圖象)も見つかっている。石だけでなく重要な素材は、亀の甲羅や牛の肩甲骨が刻まれた甲骨文はもちろんのこと、象牙杯や鹿頭、角、牙、歯、そして貝殻などもあった。すべて地球上にある自然の産物である。自然と共存する暮らしの中で、これら自然のものから「何か」を創造すること。この自然物の代表である「石」を主体に、加工し創造する物語を描いたのが、この「辰」造形である。
石器の創造は人類史における大革命であった。二百万年の思考錯誤から解き放たれた人類は、たった3000年そこらで、自然界には存在してはいけないものまで作ってしまった。数百万円と三千円では桁が違う。石の創造から、現代人への以降は、あっという間の出来事だ。未来の問題は、科学と己の欲望で、自然を蔑ろにして過信し続けている点であるが、この愚かさは歯止めが利かない。古代のホモサピエンスは何百万年から何万年ものあいだ地球で暮らしてきた。われわれはたった数千年で地球をぶち壊そうとして、無駄に宇宙を妄想している。「我々人類はバカ」「過去現在未来・バカ」「繰り返し~」とうたったブルーハーツの歌を思い出す。
せめてもの足掻きかもしれないが、漢字には古代の風景が宿り、我が国の神道の根幹は甲骨発想に限りなく近い。甲骨文のいのりは儒教、道教、そして仏教とも違う。ましてやキリスト・イスラムのような視点はない。不思議なことにふるき神道の祭祀と同じなのである。
古代をもつ風景を刻んだ文字を識る列島人であるならば、自然の神々も違和感なく受け入れることができるし、円を通貨単位とするこの「円」の意味も「まどか」なる循環サークルである。
御守りは一年で御宮にお戻ししてお焚きあげをする。
燃えて自然に還らないものはそもそも授与しない(情けないが金儲け神社は別だが、、、)
自然とともにあった祈り。
われわれは、無意識に感じ取ることができる。
十二支の撥想と循環するcircleを取り戻せるのではないか。
十二支の水分マンダラcircle対角で考察すれば、「辰」の対角に「戌」があり、「戌」は青銅器の神具を表現している。刃の鉞部分を下にすると「王」造形となる。この一連の流れが、前半後半で干支がめぐる物語を読み解く重要なポイントである。
前半は「身技との交遊」後半は「追悼への祝祭」、よりシンプルに言えば「教育」と「祭祀」である。生まれた赤子(ね※子年)が皇太子(み(子)※巳年)になるまでの間、自然物(例えば石など)を加工し、自身の身体の技を磨き石器を作る技術が「辰」で描く「教育」の最終段階である。その「創造力」が人生後半になると「青銅器」にみる神具の輝きを描く。「戌」は祝祭の重要な神具となり、まさにシンボル(象徴)である。最期の「亥」の死と再生の前の最終段階となる。
十二支で發想された人生の流れ、それは漢字を使う我々の「循環する人生」の段階を描く。
現代において自然物に触れて創造する教育はなにか。臨終へ向かう祝祭においてシンボルとなるものとはなにか。童がiPhone片手に指先だけで、なにかを創造した気になってしまったり、翁が既得権益と地位と名誉にしがみついて、死んだ後に吊るしあげられるような時代に、「辰」と「戌」で描いた3400年前の好循環sapiens発想を稽(かんが)えてみるべきだろう。
来年は乙巳 いっし。我が国には改革の歴史がある(645年…乙巳の変:大化の改新)ことも思い出される。
十干についてはまた、より深い發想力が必要だ。2024~2034へ向かう。
ほんとうにあたらしい10年のはじまりとなる。
稽古照今・古事記の一説曰く「いにしえをかんがえて、今を照らせ」
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