12亥考5 「死」について。
十二造形の最期に配された造形。
亥の日の最期に「死」について考える。
そしてこの文字「死」の「歹」造形には重大な発見があった。
「死」造形は「歹(ガツ)」+「※卩(セツ)」
「歹」…亡くなった人の遺骨。
「卩」~「喪主」…その遺骨を蹲踞をし祭祀儀礼の作法でのぞき見る人。
よって、現実に存在するものにとって、「死」とは遺されたものにとっての視点である。
最初の文字の造形発想は、葬祭の風景(祭祀儀礼)そのものである。
十二支の12番目「亥」の次は最初の「ね」へ戻る。時間は途切れることなく循環する。
そこではじめにみたように「ね」造形が多様であることをもう一度、おもいかえしてみようか。
「ね」造形がなぜ、多様なカタチばかりで、定まらないのか。
「ね」が画かれた発想の原点の本来の意味とはなにか。
を探究模索してきたが、簡単に答えがでる問いではなかった。
ふと「死」造形を、目怒らしてもう一度眺めてみる。
「歹(ガツ)」…これは遺骨(位牌)を表現したものだ。
この中には、その前まで「人」として生きていた現世の姿があった。
こんなにコンパクトに小さくなってしまう。遺されたのは骨である。
この「歹」造形をよくよく見ると
その遺骨の四角い造形や、
斜めのラインに、「ね」との類似性があることに気がつく。
遺骨「歹」→「ね」
死と再生。
これは通じる物があるのかもしれない。
十二支の時の流れは円をえがく。西暦のように数字が1000円2000円と増え続けるバカな話ではない。
循環する東アジアの時間は一直線ではない。まどななるCircleを画きつづける。
胎内の細胞のように、らせん状の生命体となる。
それは太陽系や宇宙も巡る円の軌道だ。
3400年もえがいてきたCircleだ。
「死」→「再生」
十二の造形は循環する時間であり人生で在る。
われわれは12の大切なことを
くりえしくりかえし生活のなかで無意識に繰り返してる。
その呼吸を12のカタチとして刻んだ。
例えば、ヨコのラインは卯の日と、酉の日。
肉を分ける日もあれば、酒に酔いしれる時もある。
最期に輪廻転生するラインは「亥」→「ね」
死んだように眠った次の日は生まれたばかりの「ね」となり、
あたらしい一日がまた、生まれ変わったようにはじめることができるだろう。
※圖 特に「ね造形は」の斜め線の入った造形と似ている。
12造形はどれも欠けてはならない。
それぞれの時間に、それぞれに大切なことがある。
12回も、あらためて気づくことができる。
宿命やタイミングは、自分自身ではわからないが、ほんとうに必要なことはなんだろう。
生命の循環を謳歌する。その繰り返す呼吸のなかで大切にするべきことは多くない。
どんな状況であれ、時間であれ、永久に同じ場所にとどまることはできない。
栄枯盛衰、諸行無常の響きあり。
われわれは絶え間なく循環する。
断絶は淘汰でもある。しかし風化させてはいけないことが確かに存在する。
すでにそこに刻まれていたのだから、しょうがない。
3400年前の発想は、あなたに響くだろうか?
われわれは好循環SAPIENSであったこと。
すべてが破壊され、消え去ったあとに
心地よい風がふく。この風は循環するだろう。
わたしたちが、いても、いなくても。
またもう一度、「ね」へつづく…
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