top of page

卯01 分けあう卯。克きお下がり。

卯の造形を刻み始めたその原初の発想。そして「克」という文字も生まれた。おそらく過去3400年にあるどの辞書にも文献にも書いてはないだろう。甲骨文字をトレースしたら、そこに祈りがあった。これほど文字というものが深いものなのか。この感動を分け合えたらいいのにな。


2023年12月01日~癸巳の日。年度末総括。 

卯年とはどういう年であったか。克(よ)きことは、分けあえたこと。

なにより「十二支の發想・むらかみすいぶん」を癸(みずのと)の卯年に奉製することができた。



干支以外で甲骨文の中での「卯」の用例として、

卯は「卯一牛(ぼういちぎゅう)」などと、牛を殺すという訓義が一般であるため、野蛮な行為のように未だに言う無能書家や学者もいるのだが、そこだけで卯の解釈を完結させてはならない。「殺す」として片づけてしまうのは、合理的な説明として、大切な意図を見失う現代人の浅はかな解釈である。


「卯」とは神饌を分け合うこと。わたしはこの発見に確信をもってから謎が解けだした。


大事なことは「殺す」ではなく「分け合う」ことである。








甲骨文には分卯という連語が見える。



甲骨文は「十二支の発想」P76 「卯」を参照。


そして次に大発見。

「克」の文字である。克~分け合うよき神饌。それは口(さい)を冠して、祈りを宿している。



「十二支の発想」P79~80 「克」を参照。


御宮にて神饌を奉製して献饌し、祝詞を奏上のあと、撤饌、そのお下がりとして

神饌は「格別なよき神饌」となる。よき。それが「克」の正体であった。


言葉の意味が変化する。それを「コトバは生き物だから」といえば、片方で「誤用」を肯定するな。ともいわれる。国語の先生に怒られる。特に「しゃべり言葉」はいろいろだ。言葉は生き物である。大正の時代の芥川龍之介は『澄江堂(ちょうこうどう)雑記』に書いている。東京では「とても」という言葉は「とてもかなはない」など肯定する意見があります。うんぬん。。。が、それは一部において正しいけども、別の側面から見れば強く否定すべきものです。うんぬん。芥川龍之介も言葉について言いたい言葉があるようだ。それぞれの時代の流行で、そのつど定着してしまったしゃべり言葉は「誤用」と言われても、ヒトはしゃべり続ける。しゃべりコトバ自体が人間という流動体が発しているのだからしょうがない。

しかし文字はどうだろう。

 

「お下がり」の類義語を調べると「食べ残し、食い余し、お古、使い込まれた道具」とあり、「克」を調べると、力を尽くして相手に打ち勝つことを「克つ」といい「克己・克服・超克・相克」などの熟語が出る。

時代を経て、文字の原姿発想は消えて、その時代ごとに、意味があとずけされた。 甲骨文の祭祀の解釈からは大きくかけ離れれ、畏怖の念や感謝のあとの神饌が、食べ残し、お古になり、祭りのあとに御霊を入れた祈願を内服したよき神饌の「克(よ)き」の意味が、相手を打ち負かすことに転用された。


文字原初にあった「發想」は、合理的な社會を形成する過程で、かけがえのない大切なことを見失ってしまったのだろうか。漢字はAlphabetのようなただの音の記号ではない。ひとつひとつの造形の中に「地球のかつての風景」が記憶されている。われわれは文字を取り戻さなくてはならない。


文字創成時より現代が野蛮な組織的獣集団と化したこと。「食べ残し」がそこにあり、「相手に打ち勝つ」ことをしなけらばならない。この現代辞書が常識となるならば、人類の進化ではなく退化ではないか。システムやイデオロギーを改変できるのはヒトである。ひとりひとりは人間である。それぞれは人類の原点を見直すことができるはずだ。


卯年は分け合うこと。

それはヒトとヒトだけの世界の話ではない。

世界は人間なしにはじまり、人間なしに終わりだろう。

レビィストロース翁が、そういっている。原姿を發想せよ。

















特集記事
最新記事
アーカイブ
タグから検索
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page