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戌考4 武士道は止まらない。

十二支「戌(いぬ)」とは似て非なるものとして「戊(つちのえ)」があるが

基本となるのは同じ「戈」造形である。「戈」関連文字は多い。

青銅器の特性をみれば、軍事以上に祭祀の神具であることが重要であることもわかる。



戈に纏わる文字をまとめたCircle「SuibunART」


戌と戊

十二支「戌(いぬ)」造形は、幅広で湾曲した刃をもつ神具造形。似て非なる十干の「戊(つちのえ))造形は刺叉に分かれた先端をもつ武具。殺傷機能をもつ武器としての戈・伐などは突き刺す先端をもつ別字で、十二支の「戌(いぬ)」と十干「戊(つちのえ)」のは、同じ形に見えるが、干支として表記する甲骨文においては、造形として区別して刻まれている。


 武道の「武」に関しては、その造形の意味に対して、後の時代の思想をとりいれて字源説まで曲げられてしまった。春秋戦国時代の誤った解釈から、新渡戸稲造の「武士道」の誤った解釈まで、未だに「戈を止める」と書いて「武」となる誤解釈を語るヒトがいる。「武」は戈であり、武力進行を表す造形である。

















 甲骨文字の原点の造形にあたらず、のちの中国の文献だけを鵜呑みにしてしまえば真実はみえない。文字の原姿を知らないヒトはお札にまでなってしまった。間違った文字遊びで、虚構の哲学と虚構の紙幣を強化してる。


戈「武器としての矛」と、暦としての十二支「戌(ジュツ・いぬ)」の区別がつかない日本人。

こんなことでいいのか? 政治経済も悲惨だが、そもそもの漢字教育と。字源を知らない幼稚な書道を芸術として、深みのない名ばかりの文化で迷走している。ほんとうのことをなぜ、知ろうとしないのだろうか?

これまでの常識や、辞書が凡て「正しい」と確信をもてるだろうか。


武=戈+止 

武器を持ってすすむ造形=甲骨文では進行の象徴 

※のちの誤説~春秋‹宣公12›戈を止めるを武と為す。軍事の抑止ではない。


武 文字変遷。


甲骨文字は、亀甲獣骨文字として

亀の甲羅や、牛の肩甲骨に刻まれた。

なかには鹿の骨、すこしだけ人骨もある。

その他の兕角にも刻まれた例がある→すべて「骨のネタ・むらかみすいぶんトレースのすすめ」に収録。




以前、ニュースで鹿の角を切る儀式にクレームが入ったとあった。動物虐待だという。※エサを十分に与えなかったという報道もあるらしい真意はわからない。牛祭も、馬を使った祭りにも、愛護団体からクレームが入る。さて祭りとはなにか。本来は見世物でもなく収益イベントではなかった。

いうまでもなく神事であり、中核の武部分は、その祭祀である。そこに祈りはあるのか

 

 武丁の名が鹿の頭蓋骨に刻まれている。殷代後期の重要な考古学的資料だ。

3400年前の鹿の骨は、その祈りと祭りの姿を浮き彫りにして、古代の風景をみせてくれる。

立派な角がついたままの骨。骨は時を超えた。文字と共に。そしてそこには祈りがあった。



甲骨カレンダー2024~2025年3月まで。


 相撲は神事だったはずで、八百万の神々を喜ばせるためにはじまった。オリンピックはオリンピアの神々の戦に、人間の精神が触れる祝祭であった。あらゆる神事が、神事としての機能ではなく政治経済の余剰な飛沫微子にまみれている。物質的に豐かになったわれわれ人類は、循環の発想を思い出すべきだった。西洋史観や株価上昇などの直線に突き進み続ける盲信はとっくに限界を迎えている。


<余談>

20代の終わり頃に、はじめて出会った「合気道」は衝撃だった。

当時の都内代々木の師範は、人生ではじめてみたホンモノの「武士」だった。

カルチャーショックを超えて、恐怖と戦慄を覚えた。現在は亡くなってしまったが、あの人を言葉では簡単に説明はできない。細やかで丁寧な「腑におちる」指導もたくさんあった。朝練の緊張感と開放感は鳥肌が立つほど覚えている。身体が覚えているといった感じなのだろう。不思議な経験をたくさんした。


そして現在も世界的な合気として、神奈川の武田師範はこころから敬愛すべきひとである。

ここでは語り尽くせないが「合気」にまつわる身体の探究は奥が深い。

甲骨文字の取り組んでいるテーマに区切りがつけば、もっと鍛錬したいのだが、、、呼吸、呼吸、汗。



























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