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02丑2 祭祀と建築。

丑造形を要素として含む文字が幾つかあるが、中でも重要な2つの文字を見ていこう。

1鬲+丑=徹  2對〔対〕

1徹(てつ)それは、とおること。下上徹示というお宮の中での祭祀作法の丁寧な仕草。

2もうひとつは、外壁を建造するという職人的な手捌き。

まさに内祭と外祭。そこには神具への畏怖の念があり、現代で言うなれば、式年遷宮のような循環する世界観へと通じる。


「丑」造形を含む文字の中で特筆すべき文字が、現代漢字でいう「徹(音 テツ・訓 ならべる・とおる)」の文字造形である。実際に卜辞を読み解いてゆくと、驚くべき、懐かしい景色に出会うことになる、甲骨文字の祭祀儀礼は、日本の古くからある神道の中核部分の儀礼作法と完全に一致しているのだ。それは儀礼の中のひとつの作法であり、その確かな手で祭器等を撤饌するさま、儀礼における所作を描いている。


1鬲+丑=徹 これは祭祀式次第の基本的な流れの中にある。祭祀が滞りなく執り行われれば、それは神々にかない徹〈とお〉ることとなるのだ。この祭祀の所作の原姿から引伸義として「とおる」の意味となる。本来は滞りなくとおる意味であった。神道祭祀儀礼において神饌を下げることを、徹饌(てっせん)という。(⇔献饌(けんせん)はお供えすること。)


●祭祀の式次第をもっともシンプルな流れを説明するとこうである。

 

修祓…お祓(はら)いの儀式。神前にて神職が祓詞(はらいことば)を奏上し大麻(おおぬさ)で祓い清める。


献饌…神饌物(お供えもの)を献ずる儀式。三方に乗せた神饌を神前に献じて、お神酒の入った瓶子(へいし)、水の入った水器の蓋を取り準備を整える。


祝詞奏上…神職が神前に進み、神威にかしこみ、拝礼し、奉書に書かれた祝詞を奏上する。


撤饌…撤饌(てっせん) 神饌物を祭壇から下げ、神職が瓶子と水器の蓋をする。


直会…神酒拝戴、直会へ、神々と饗食。神恩をお受けする。

 

撤饌の作法とは、その御饌御酒(みけみき)等の神饌を丁寧な指先で、お下げする儀礼である。

甲骨用語「下上徹示(げじょうてっし)」(合14269貞下上徹示弗其若。十三月。)は、まさに下から上まで、滞りなく齊行される儀式であるから下から上まで「とおる」意味をもつ。「示」は神々を数える単位で、我が国の「柱(神々を数えるときの単位)」に近く、神々とは自然神、祖先神、創造神など八百万の神々と同様で、多くの祖先神の集合をあらわしている。


神道儀礼とまさに合致する四文字語句「下上徹示」であるが「下から上まで」という表現に注目したい。古代祭祀は、決して上から下へ命じられる一部の政治的な圧力のようなものではなく、あくまで下から、大自然や宇宙を見上げる。その人知の及ばない自然への畏怖の念を抱きつつ、「徹(とお)」りますように、お伺いを立てるのである。祭祀や供物を神に献上する文字は「尊(酉+廾)」などの酒器を伴う文字に多いが「献」に通じる文字として献饌儀礼の文字造形も存在する。(合32757 鬲+欠:婦好への祭祀)。数は少ないが、蹲踞(跪坐)の儀礼作法で、上部の欠は口を開け「うたう」「うったう」祈る人の表現であろう。欠損片で文脈を正確に把握することは困難であるが、現代漢字に通じる犬に從う文字も見つかっている(合31812…束獻… 無名組 欠損片)。

 献饌・徹饌に共通する祭器(神具)は「鬲(れき)」または「甗(こしき)」といい、のちの青銅器の重厚な鼎(かなえ)以前から作られて陶器が存在する。殷王朝以前の遺構にもたびたび出土する三足の器である。甗(こしき・げん)の初文は、水と食物を分けて、網上の仕切りの上に食物を置き、下から熱を加えて蒸す器具であり神具ともなる。



祭祀には繊細かつ丁寧な指使いが必要とされたのであろう。「徹」は、金文で攴、古文で彳が増し加えられて鬲が育となった。のちに通徹・貫徹の意となり、徹底・徹夜のように用いた。

鼎は「貞う」として「うらなう」意味で甲骨文に多く登場する。その鼎の上に□造形を加え、鼎の口が丸いことを表して「円(まどか)=員(※+□)」という文字ができた。日本国の貨幣の単位である。円(圓)の中に鼎があり、鼎のもとには鬲があり、その鬲を奉製し祈りを込めた人々がいたことを、「円」の文字を見て感じる人はいないだろう。しかし我々の使う漢字の原姿の發想は、まだかすかに息をしていると、3400年前の人類の知恵に活かされているのだと、思いを馳せたいものだ。



2對〔対〕あらゆる造形活動の最終目標は建築である。対 音 タイ・ツイ 訓 うつ・むかう こたえる



「對(対)」は地形や施設を表す文字で、その土地に、道具をもって建築物を構築した。のち土が加わり土を撲(う)ち堅めることを對といった。版築作業は、両版の間に土を入れ、これを撲ち堅めて造成するもので鄭州の殷の都城の城壁の一部が遺存するが、その版築は一層ごとに土を撲ち堅めたもので、痕迹が残されているという。施設や土地を人の手で開拓していく際の、手に力を込める土木作業である。 旧字は對に作り、丵(さく)+土+寸。金文で上部の鑿が丵に同化。下部に土が追加され、又が寸となり、對‹対›となった。※不明。五而の上下反転か。この場合の「丵」は掘鑿などに用いる器。これで土を撲(う)ち堅めることを對という。版築の作業は、両版の間に土を入れ、これを撲ち堅めて造成するもので、撲もその器を手にもつ形。鄭州の殷の都城の城壁の一部が遺存するが、その版築は一層ごとに土を撲ち堅めたもので、その撲った杵(きね)状の痕迹が残されている。



「全ての造形活動の最終目標は建築(バウ)である!」1919年4月1日、ワイマールに設立された総合造形学校(通称「バウハウス」)の初代校長・建築家ヴァルター・グロピウス(1883-1969)の考えである。近年、技術と美術は混在し、工芸、設計、デザイン等、造形芸術は多種にわたる。建築家は多彩な技術を駆使して総合的に建造物を美しく仕上げるが、そればかりではない。その原点には甲骨文字「対」造形。我が国でいえば御宮、神社仏閣にも名残が残る。建築関連でいえば、「画」の乂(がい)の交差するものは技術の過程で必要とされる設計工具を象ったのかもしれない。神社の千木へ通ずるとも想われる×(こう)と「學」、この交差する抽象的な造形を攴すのは「教」の文字要素にもなる。草木や、枝分かれした毛を筆にした「聿(いつ)」、そこに八街の交差点(社会)を組み合わせ「律」我々は法律というものを近代的に説明するが、この建築と五のバランスから「律」が生まれたのかもしれない。安定的な造形である「五」の甲骨文字造形は古代世界では同時代的にも共通している。 春秋戦国には陰陽五行説も生まれ、五角形で世界を説明した。


<※補足>

中国では古くから都市を守るために周囲に壁をめぐらしたが鄭州二里岡遺蹟の城壁の場合、東側と南側の城壁の長さ一七〇〇メ―トル、西側の城壁の長さ一八七〇メ―トル、北側の城壁の長さ一六九〇メ―トル、全長七キロ。また高さはもっとも高いところで九メ―トル。厚さは、基礎のところのもっとも厚いところで三六メ―トルあった。この城壁は石や煉瓦などを使用せず土を突き固めたものではあるが、研究者による試算では、鄭州二里岡遺蹟の城壁を築くのに、使用した土の量は八七万立方メ―トル、採土に三〇〇〇人、採土の運搬に三〇〇〇人、突き固めに三五〇〇人、これを毎日使役したとして二九〇〇日かかることになり八年間の年月を必要とするとしている。このような一大造営が行なえる文化を持つ遺蹟であり、甲骨文が大量に出土した小屯遺蹟の前の段階の遺蹟にもかかわらず甲骨文より以前の文字は発掘されなかった。しかし、このことを除いては大量の土器・青銅器・石器・骨器・貝殻製具・玉器の生産工具が発掘され、城壁の外の地域からは土器・青銅器・骨器のそれぞれの専門の製造工房の遺蹟が発掘されていることは、明らかに高度に発達した都市国家を形成していたことが裏付けられるのである。







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