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西暦2025年 巳年は子年。その1

2024年02月19日 癸丑の日。 西暦2025年に向けて。その1

来年の西暦2025年は、現代十二支の漢字では、巳年(みどし)という表記で通用しているが、甲骨文字を見れば6番目の「巳」の位置にあるのは、明らかに「子」の造形であることがわかる。

同時に最初の「子年(ねどし)」は「子」造形ではない。




甲骨文字以後の、後代の文字変遷(金文ー隷書ー漢字)の過程の中で、変換ミスの過ちが起った。

そもそも原初の十二支の発想の真意を、金文時代にはすでに誰も理解できていなかった可能性が高い。

「十二支」を今日の今日まで意味の分からない謎の12記号として、学者たちを困惑させ、十二支の最初の発想をわからないままにしてきた。






この巳年が本来「子」造形であったことを、どう解釈すればよいのか。



巳年は「子」年であった。


わが国においても平安時代の弘法大師空海は甲骨文字すら知ることがなかったであろう。


空海翁が甲骨文字をみていたら世界の歴史は大きく変わったと思うが、甲骨は土の中に埋もれていた。


近代では南方熊楠翁に「十二支考」があるが動物雑学の本である。熊楠翁が生きていた時代はすでに大陸で甲骨発掘がはじまっていたが、熊楠自身は甲骨文字をおそらく見ていない。甲骨造形を手にしたならば「動物」の話だけで十二支を終わらせることはしないだろう。

 大陸では発見はされていたのだから熊楠翁が甲骨文字に触れるタイミングがなかったのは惜しまれる。実は我が国は、熊楠ですら西洋文明の波に押され、ネイチャーに寄稿し、足元の文字(東亜細亜の根本)を見つめることがなかった。昭和とは、ただただ西洋的優位で根っこを棄て叉去った時代だったのか。それは恐ろしく愚かな時代である。


さて、話を戻そう。

十二支暦に動物にあてたのはいつだろうか。確かな考古学資料:睡虎地出土の「日書」によると、紀元前217年あたりと推定される。当時の官僚の日記のようなもので、日付をあらわす干支に「どうぶつ」があてられている記録が確認できる。春秋時代の戦国期である。戦国時代にすでに、十二造形の初期の発想は見失っていたようだ。動物に充てたのは現代人の感覚と同じだろうか。犬や猫は親しみやすい。わけのわからない造形を12コ並べるよりも、干支も動物にした方が親しみやすいのである。


春秋戦国時代の「戦国」期の段階ですでに「巳年(ヘビをあてる)」が記された。その戦国時代は、陰陽五行論や算命学、また諸子百家の多種多様な思想などもあって、思考は深淵なものであったはずだ。されど、孔子も老子も十二支の造形については、その発想の根源も、なにも語っていない。

そもそも遡ること…もうすでに西周王朝初期から神聖文字の崩壊ははじまっていたともいえるだおう。もっと言えば、大邑商時代の後期(殷王朝滅亡寸前)には祭祀はルーティン化(五祀~機械的に順番や決まりを作る定例祭祀)となり、政治経済システムも合理性を第一として動きはじめていた。もはや現代政治とさして変わらない体制がほぼ完成されていたといってもよいだろう。しかし、その規制の強まりの中でも春秋戦国時代には思想的開花し孔子・老子、孟子、荀子、韓非子などなど多くの「子」の登場もあった。実はこの「子」がひとつ重要な名称であるということ、6番目の巳年の「子」の意味を読み解くヒントでもあるのではないか。「子」は現代のように幼い子どもを表すのではなく、立派な「子」としての「子」である。論語の「子曰く…」はおさない子どものコトバではない。


「子」は甲骨時代から、最重要文字のひとつであった。

用語としては、子族、多子族の語も多く見られ、親族呼称として、有力な領主にも用いられた、まさに皇太子、殿下である。


また教育機関「大学」の文字もすでに見える。※ちなみに最初期の「學」には「子」造形はない。




現代の皇室と同様に、子どもが継ぐこと、子孫を残すことは常に重要なトピックであった。

子ども造形に纏わる文字は特に重要である。


水分ART


巳年の造形が、「子」であるということ。1番目が子年ではなく

6番目に「子」が刻まれる。これははじまりではない。皇太子や、立派な「子」としての完成を意味する。

そして、7番目の「午」へ、祭祀の入り口へ、人生は第二のステージへ向かうのだろう。


甲骨文字には現代に継承されなかった「子」関連には亡失文字も多く、

われわれ現代人になくしてしまった祭祀が刻まれている。その2へつづく…






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