12亥考1 ヒトか獣か。
- むらかみ すいぶん
- 2024年3月11日
- 読了時間: 7分
更新日:2024年3月12日
2024年3月12日 乙亥の日。

十二支12番目の造形は、最期の「亥」であるが、
終わりと同時に次の「ね」へとつなぐ位置にある「終わり」であり「はじじまり」へ向かう造形でもある。
甲骨マンダラCircleをもちいて、その12の造形の時間が循環するなかで、この12の発想は、なにを表現しようとしていたのか。
3400年も連綿とつながり続けてきた
東亜細亜の「時間」の発想。ついに最期の造形を読み解く。
十二造形のうち、あえてヒトの姿の全体像として捉えることが可能なカタチは
3つの造形しかない。あとは身体の部分(丑)の表現や、具体的な神具(寅、辰、酉、戌)、祭祀(卯、午)、そして自然現象(未、申)などを象った造形である。

ひとの姿をしたと想定できる造形は、
最初の「ね」と6番目の「子=巳年」そして最期の「亥」である。
1番目「ね」は謎の造形については、数多考察が尽きないが、干支の時間の「はじまり」として「誕生」の瞬間として、なんらか産み落とされた姿であることは間違いない。
実は人間の全体像と確実に認識できるのは巳年を表した「子」造形だけである。最期の亥も、「ね」と同様に謎の造形であるが、その姿は、ヒトの側面系の造形に限りなく近い。
それでは、「亥」は「ひと」なのか。
ヒトをヨコから見た側身系の部類としては分類することができるが、
いやいや、ヒトの造形とは、すこし異なる。

そこで白川翁は「字通」解説にて「亥」を獣の形と断定する。〔説文〕十四下に「艸亥(がい)なり」と草の根の意に解する。しかし獣の形とみるのは亥殳 巳攵(かいかい)の亥殳の形で、その造形は呪霊をもつ獣(亥)を殴(う)って邪霊を祓う意であるとする。十二支獣の猪にあてるが、十二支獣は漢以後の知識である。干支は殷の甲骨文にすでにみえるが、十二支と字義との関係はなお明らかでない。とする。
字源の説明に、まず説文解字の説は当時の思想なので論外である。そして白川翁の(かいかい)もまた、春秋戦国時代以降の文献などに見える後発の資料からの解釈である。甲骨文字の造形は、まず甲骨文字を創成した時代の視点でその根源に発想を求めなくてはならない。ほんとうの字源の核の正体は甲骨文字のなかにある。
そこで甲骨文字の中に刻まれている「獣」と「人間」を並べて比較考察をする。

いきものは、その姿を丁寧に細かく描写した。
得体の知れないものは、よりよく深く観察をする。
畏怖の念と、生命に対する敬意の現れともいえる。
それにかわってヒトはシンプルに画かれる。たった二画で表現する。
同じ神聖王朝のヒエログリフとの決定的な違いはここにある。

丑考察 尹の資料から 好循環SAPIENS:むらかみすいぶん資料。
ヒトがヒトファーストで人間中心でつくられる世界観と、東亜細亜の自然との折り合いを模索し
共存する視点との差異であり、ヒトをシンプルにデフォルメ化することによって、3400年の文字の歴史が保たれたともいえる。地球上に、われわれ人類だけが生命体なのではない。
生命に優越はつけない。(※しかし漢代になると、許慎はヒトの解説において〔説文〕八上に、「天地の性、最も貴き者なり」とした。甲骨文字創世記には無かった、合理化を侑湔する科学的データの過信によるおおいなる奢りと勘違いは現代にはじまったものではない。この時点より前の春秋時代にも、西周王朝にも、もっと言えば殷代後期の王朝滅亡直前も人間の奢りが五祭祀というルーティンマニュアルによっても確認できるだろう。)
文字のほんとうの発想、そのはじまりの探究へ迫ろう。
そこで甲骨文字「亥」造形を分解して分析する。

人と亥の相違点。
まず上部の中段の位置にある「手」がおかしい。
この手は「亡くなる」を意味する造形に類似する。

下部の足は、宙に浮いている。
方造形の下部と類似する。
「方」について。

方…字源諸説あり.
字源諸説1 人(万ぼく)の側面形+首枷 ※上部は、央(正面形)二と同じ首枷か。
字源諸説2 刀を懸けた形や、耜等。※人ではないとみる説
字義は地方(東方、西方)や敵対勢力の汎称、帝や方角を掌る神などを表す。
1支配領域。地方の支配地。方角を付して東方や西方などと呼ばれる。
2方帝
3方角を掌る神
4敵対勢力の汎称。く方ほか。
「亥」造形は、側面系の人が首枷をかけられた「方」造形に似ているが、上部に特徴的な横線ラインがある。正面系の「天」や「元」には二本のラインがあり、首から上の頭上を強調する表現として画(えが)かれる。人ぼ変形として「亥」は首を切られた状態か、上部を強調した造形かもしれない。

甲骨文中には東西南北を「方」として呼ぶこともある。
「某(なにがし)方」という語が30くらい出てくるが、これらの多くはこういった殷王朝にとっての敵対勢力や、自分たちの区画地の境界外にいる異民族をあらわしていると推測される。
殷墟の遺構には長方形の穴が整然と並ぶ地区がある。その穴の中には頭骨のない人骨が納められている。考古学的記録によれば、少なくとも殷墟に都があった殷代後期約200~300年の間で1万人以上と推測されており「犠牲坑」は千数百を超えるとされている。大規模な墓はほとんどのものが何世紀も前に盗掘にあっていたが、骨が埋められた埋葬の遺構は残る。
重要なポイントは、捕虜を奴隷として、労働力にしていた西アジアやギリシャと違い、殷は祭事のために用いたということ。捕えていた多くは西方の羌(きょう)と呼ばれる遊牧民とされる。後の西周時代、そして春秋戦国時代、漢代などでは殉葬といわれたものがある。殉葬(じゅんそう)は、主君や夫などの死を追って臣下や妻などが、死者と共に埋葬され葬られること。殉死者が任意に、共に死する場合もあれば、強制的に殉死させられる場合もある。祭祀上の生贄なのか、殉葬なのか。現代人の常識にはない葬儀の観念はまだまだ考察すべき点が多いが、「方」が首枷で「亥」上部が首を切られた横線のラインを画いた造形とみることもできる。

方関連造形は境界線にあるものを表す。
考察すべき文字として「衛」や「邊」の造形もあある。
衛…行+丁(城壁)+あし。
周囲を巡回する意味の足の造形。行に従うことから、軍隊を派遣して地方都市(方などから防衛(防御)することが原義。丁ではなく方に従う造形も刻まれている。字義は、まもる。護衛する。防御する。まもらしめんか。と現代漢字の「防衛」と近い意味である。
邊(原発P284)
訓義に、くにざかい あたり ほとり・はし等もあり、境界線の呪禁を表現している。
自+丙…甲骨文では用例が少ないが、丙の台座の上の自(鼻)を置いたカタチで画かれる。鼻は人の象徴的な中央の部位にあるものだ。ドクロと表現する説もある。鼻を自分にさして、自らという。~より【~自り】という文法の構造もできた。鼻呼吸は呼吸法の一つとしてとても重要で、鼻は生きた人間としての象徴的な造形でもある。
甲骨文例には「備える」の文字とともに刻まれている。辺境地の防衛の意味ともみることができる。
「邊」は金文に鋳込まれるいたって「方」が付加された。防備の意味。金文で辺境の意味に.一説に鼻穴を上にして台上におかれた屍体の形で、首祭として知られている祭梟の俗を示す。いわゆる髑髏棚(どくろだな)で屍を架けた象とする説。境界線の方は人を磔(たく)する形とし外界と接する要所に設けて、呪禁としたという。それで境界の意となり、辺境の意となり、辺端の意となる。金文の〔大盂鼎(だいうてい)〕に「殷の邊侯甸(でん)」の語があり、辺境の諸侯をいう。未知なる境界は、得体のしれない恐ろしさがある。辺境を強固に守るべき地であった。
余談だが、渡邊の「なべ」の中は口ではなく方が原形の意味を失わずに持っている。口は行書・草書の流れで、省略して速く速記した文字が「口」のような造形に見えた。その口を康熙字典が採用し江戸時代あたりに列島に、誤った造形の知識として根付いてしまった文字である。
次は実際の甲骨文では「亥」はどのような用例があるのか。

ここに重要な王が登場する。
「王亥」である。「鳥に喰われる王」「鳥と霊魂の説話」などなどについて。。。 つづく
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